人間の器。
昨日、ブログに書いた自己責任論。
自分の周りの環境や現象を、どのレベルまで自己責任に捉えられるか。
それこそ、千差万別だと思います。
例えば、マザーテレサは、目の前にいた貧困に苦しむ人すべてを自分の責任と捉えたのだと思います。
同様に、ガンジーは植民地支配に苦しむ国家全体を、キング牧師は差別政策に苦しむ黒人全体を自分の責任だと捉えたのでしょう。
昨今で言えば、ビルゲイツは、パソコンのOSが標準化されていないことを、Googleの創業者は、世界中の情報がデータベース化されていないことを自己責任に捉えたのではないでしょうか。
さらに究極を言えば、釈迦やキリストは、世界中の人々の苦悩を自己責任と捉えたのだと思います。
しかし、その一方で、自分の不幸や悲運さえも、他人の責任にしている人がいる。
同じ人間でも、ここまで考え方が違うわけです。
自分が、どのレベルまでを自己責任に捉えられるか。
それがそのままその人の器になるのだと思います。
器の大きい人は、高いレベルまで自己責任に捉えることができる。
器の小さい人は、低いレベルでも自己責任に捉えることができない。
最低でも、自分だけに関する環境や現象は、すべて自己責任と捉えないと、何も始まらないように思います。
おそらく、ここがやっとスタートラインなのだと思います。
ありがとうございました。