人生の究極の目的は何か(その2)
人生の究極の目的はなにか。
これは、おそらく、人それぞれ考え方が全く違うと思います。
昨日のブログは、問題提起が目的でした。
2010年正月、1日が満月で月食でした。
そして先日、15日が新月で日食でした。
さらに、30日にもう一度満月になります。
データがないのでわかりませんが、こんな正月はめったにないと思います。
とてもめずらしい月だと思うので、一度、人生全体を俯瞰するくらいの大きな視点に立って考えてみることをお薦めしたかったのです。
私も、年末年始くらいから、人生の目的について考えていました。
そして、現時点で考え着いた人間の人生の目的は、『神と呼ばれる存在になること』です。
ただ、ここにおいて神とは、一神教的な神ではありません。
既にあるなんらかの存在を目指すということではありません。
日本の神道にある八百万の神とか、全ての存在に神が宿るという考え方の方の神です。
人それぞれが、全く違った形の神を目指すのではないかと思います。
例えば、松下幸之助さんが経営の神様と呼ばれたり、菅原道真が 学問の神様とされたり、手塚治虫さんが漫画の神様と呼ばれたりするのは、それぞれの分野において、究極の存在となられたからだと思います。
ということは、人間にとって究極の存在が「神様」であるということだと思います。
これは、すなわち、人間の究極の目的が神様になることを示していると言っても過言ではないと思うのです。
そして、実際には、人間個人個人が、その個人において究極の姿である状態を目指しているのではないでしょうか。
例えば、私は、私という存在の究極の姿を目指して生きているということです。
そして、その、究極の姿が「神」と呼ばれる存在なのだと思います。
このことは、他人との比較や競争がいかに無意味で価値のないことであるかも示していると思います。
さらに考えてみると、神になることが目的であるならば、幸も不幸も、その両方を経験する必要があります。
成功も失敗も、貧富・苦楽・生老病死も、あらゆる陰陽すべての経験をした方が、究極の姿を目指すためにはよいといえます。
どちらか一方だけの経験では片手落ちになってしまい、バランスを欠いてしまいますので。
この観点から見ると、全ての経験は糧となり、すべてのことに意味があり、無駄なことは一つもないと言えるようになるのだと思います。
そして、失敗に終わった人生なども一つもなく、すべての人生が完全に意味があり、すべてを全うしたと考えることができるようになります。
普通に日常を生きていると、目の前の生活にかかりきりになってしまい、本当の人生の目的という目線を失いがちです。
これは、もしかしたら、目の前の現象について主観的になりすぎて、感情的すぎる状態なのかもしれません。
以前、イチローと矢沢永吉がテレビ対談で、お互い、イチローや矢沢永吉というスーパースターを演じているという意識があるということを話していました。
これは、自分という存在をある程度客観視していることを示唆しています。
イチローや矢沢永吉も、既に神様と呼ばれてもよい人物だと思います。
そういう人達が、自分をある程度客観視する生き方を共有しているということは、とても興味深いと思いました。
自分をという存在を究極の姿に成長させるため、あらゆる経験を糧にしていく。
まるでロールプレイングゲームで主人公を操作して成長させていくように、人生の目的という視点から、このくらいの客観性を持った生き方が大切なのかもしれません。
ありがとうございました。